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浦部法穂の「大人のための憲法理論入門」
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第8回 国旗・国歌の押しつけが許されないわけ
浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2015年4月27日
4月9日の参議院予算委員会で、安倍首相は、入学式や卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱を行っていない国立大学がある、との質問(次世代の党・松沢議員)に対し、「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」などと述べた。これをうけて下村文科相は、「入学式での国旗や国歌の取り扱いについては、各国立大学で適切な対応が取られるよう、これから国立大学の学長が参加する会議などで要請したい」とした。とうとう大学まで政権の統制下に置こうというのだ。さらに安倍政権と自民党は、テレビ報道番組の個々の内容まで再三問題視し、4月17日にはテレビ朝日とNHKの幹部を党に呼びつけて個別番組の内容に関し事情を説明させた。テレビ番組にも圧力をかけて言うことをきかせようというわけだ。まさに、全体主義・国家主義への道をまっしぐら、である。それなのに、世間の反応は、イライラするほど鈍い。朝日・毎日などいくつかの新聞は、これらの問題を社説で批判したが、その批判すら、歯がゆいほどにおとなしい。そればかりか、読売・産経という「亡国新聞」は、国旗・国歌に関して、「問題視するほうがおかしい」と言ってのけている。「国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会の常識であり、当然のマナーだ」(4月16日付け読売社説)と言われると、うなずいてしまう人も多いのかもしれないが、「常識だ」とか「当然だ」で片付けるのは、きちんとした根拠を示せないからだ、と思ったほうがよい。そこで以下、すでに4年あまり前に「憲法時評」に書いたことと重複するが(「国旗・国歌強制のほんとうの問題」2011年2月3日)、国旗・国歌の押しつけが許されない憲法理論上の理由を、もう一度書くことにする。いや、この先日本が民主主義国家として生き残ることができるかどうかの瀬戸際にある今の時代、少しでも多くの人の目にとまるよう、同じことであっても何度でも書こうと思う。
国旗・国歌に関しては、それが「日の丸」・「君が代」であるがゆえに掲げたくない・歌いたくないと思う人も少なくないだろう。「日の丸」・「君が代」は、かつての軍国主義日本のシンボルとして、文字どおり侵略の旗印としての役割を果たしてきた。だから、そういう旗や歌を、掲げたくない・歌いたくない、見たくも聞きたくもない、と思う人がいても不思議ではないし、現にいる。国旗・国歌の押しつけは、そういう人たちのそういう思いを抹殺するものである、という意味において、憲法19条の保障する「思想の自由」を侵害し許されるものではない、といえる。国旗・国歌の問題は、この文脈において議論されることが多いように思われる。憲法理論上、それは、もちろん、まちがいではない。軍国主義のシンボルであった「日の丸」・「君が代」は国旗・国歌としてふさわしくないとする「思想」を封殺するような国旗・国歌の押しつけは、明確に憲法19条に違反する。
しかし、では、もしも国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」でなかったならば、権力が国民に押しつけても問題ないということになるのだろうか。そうではない。国旗・国歌の押しつけが許されないのは、「日の丸」・「君が代」だからというよりも、まさに国旗・国歌だから、なのである。国旗・国歌は、いかなる場面においても、決して権力が国民に対して押しつけてはならないものなのである。少なくとも民主主義国家においては。憲法理論上の本質的な問題は、そこにある。
国旗・国歌は、国家の権力に服属する人々にその国の一員であるという意識を植え込み、人々を「国民」として国家のもとに統合するという機能をもつ。そのために、近代以降の「国民国家」(nation state)は、国旗・国歌というものを制定したのである。私たちが、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うとき、程度の差はあっても、「自分は日本国民(日本人)だ」ということを意識しているであろう。日本という国の一員であるという意識、しかもそのことを肯定的にとらえる意識である。言いかえれば、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎(の一つ)とする意識である。そういう意識をもつことが悪いというわけではない。しかし、そういう意識を持つべきだと、他から、ましてや国家公権力から、強制・干渉されるいわれはない。自己のアイデンティティの基礎をどこに求めるかは、まさに個人個人が自分で自律的に決めるべきことだからである。それは、憲法13条のいう「個人の尊重」の一番根源である。国旗・国歌の押しつけは、国家の一員であることを肯定的にとらえる意識を持て、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とせよ、と強制されるに等しく、「個人の尊重」のもっとも根源的な部分への侵害となるのである。
しかし、国家の権力にとっては、国家の一員であることを肯定的にとらえ、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とする人々が増えてくれることは、好ましいこととなる。できれば国民すべてにそういう意識を持ってもらいたいと思うであろう。そういう意識を持った国民が多ければ多いほど、権力の求心力は高まり、国家の権力体制への深刻な批判や反対は少なくなるからである。だからこそ、権力は、小さい子どものうちからそういう意識を植え付けようと、小・中・高等学校での国旗・国歌強制に躍起になっているのである。それを、今度は大学にも及ぼそうというのだ。安倍政権は、ここまで露骨に権力の欲求を満たそうとしているのである。しかし、そうして権力や支配体制への疑問をいっさい持たず批判能力をまったく失った国民ばかりになった国は、どんな国になるのであろうか。そういう国を、私たちは、「全体主義国家」と呼んで、民主主義の「敵」とみなしてきたはずである。いま、この国は、そういう方向に転がり落ちようとしている。そのことを、私たちは、はっきりと自覚しなければならない。
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第8回 国旗・国歌の押しつけが許されないわけ
浦部法穂・法学館憲法研究所顧問
2015年4月27日
4月9日の参議院予算委員会で、安倍首相は、入学式や卒業式で国旗掲揚や国歌斉唱を行っていない国立大学がある、との質問(次世代の党・松沢議員)に対し、「税金によって賄われているということに鑑みれば、教育基本法の方針にのっとって正しく実施されるべきではないか」などと述べた。これをうけて下村文科相は、「入学式での国旗や国歌の取り扱いについては、各国立大学で適切な対応が取られるよう、これから国立大学の学長が参加する会議などで要請したい」とした。とうとう大学まで政権の統制下に置こうというのだ。さらに安倍政権と自民党は、テレビ報道番組の個々の内容まで再三問題視し、4月17日にはテレビ朝日とNHKの幹部を党に呼びつけて個別番組の内容に関し事情を説明させた。テレビ番組にも圧力をかけて言うことをきかせようというわけだ。まさに、全体主義・国家主義への道をまっしぐら、である。それなのに、世間の反応は、イライラするほど鈍い。朝日・毎日などいくつかの新聞は、これらの問題を社説で批判したが、その批判すら、歯がゆいほどにおとなしい。そればかりか、読売・産経という「亡国新聞」は、国旗・国歌に関して、「問題視するほうがおかしい」と言ってのけている。「国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会の常識であり、当然のマナーだ」(4月16日付け読売社説)と言われると、うなずいてしまう人も多いのかもしれないが、「常識だ」とか「当然だ」で片付けるのは、きちんとした根拠を示せないからだ、と思ったほうがよい。そこで以下、すでに4年あまり前に「憲法時評」に書いたことと重複するが(「国旗・国歌強制のほんとうの問題」2011年2月3日)、国旗・国歌の押しつけが許されない憲法理論上の理由を、もう一度書くことにする。いや、この先日本が民主主義国家として生き残ることができるかどうかの瀬戸際にある今の時代、少しでも多くの人の目にとまるよう、同じことであっても何度でも書こうと思う。
国旗・国歌に関しては、それが「日の丸」・「君が代」であるがゆえに掲げたくない・歌いたくないと思う人も少なくないだろう。「日の丸」・「君が代」は、かつての軍国主義日本のシンボルとして、文字どおり侵略の旗印としての役割を果たしてきた。だから、そういう旗や歌を、掲げたくない・歌いたくない、見たくも聞きたくもない、と思う人がいても不思議ではないし、現にいる。国旗・国歌の押しつけは、そういう人たちのそういう思いを抹殺するものである、という意味において、憲法19条の保障する「思想の自由」を侵害し許されるものではない、といえる。国旗・国歌の問題は、この文脈において議論されることが多いように思われる。憲法理論上、それは、もちろん、まちがいではない。軍国主義のシンボルであった「日の丸」・「君が代」は国旗・国歌としてふさわしくないとする「思想」を封殺するような国旗・国歌の押しつけは、明確に憲法19条に違反する。
しかし、では、もしも国旗・国歌が「日の丸」・「君が代」でなかったならば、権力が国民に押しつけても問題ないということになるのだろうか。そうではない。国旗・国歌の押しつけが許されないのは、「日の丸」・「君が代」だからというよりも、まさに国旗・国歌だから、なのである。国旗・国歌は、いかなる場面においても、決して権力が国民に対して押しつけてはならないものなのである。少なくとも民主主義国家においては。憲法理論上の本質的な問題は、そこにある。
国旗・国歌は、国家の権力に服属する人々にその国の一員であるという意識を植え込み、人々を「国民」として国家のもとに統合するという機能をもつ。そのために、近代以降の「国民国家」(nation state)は、国旗・国歌というものを制定したのである。私たちが、「日の丸」を掲げ、「君が代」を歌うとき、程度の差はあっても、「自分は日本国民(日本人)だ」ということを意識しているであろう。日本という国の一員であるという意識、しかもそのことを肯定的にとらえる意識である。言いかえれば、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎(の一つ)とする意識である。そういう意識をもつことが悪いというわけではない。しかし、そういう意識を持つべきだと、他から、ましてや国家公権力から、強制・干渉されるいわれはない。自己のアイデンティティの基礎をどこに求めるかは、まさに個人個人が自分で自律的に決めるべきことだからである。それは、憲法13条のいう「個人の尊重」の一番根源である。国旗・国歌の押しつけは、国家の一員であることを肯定的にとらえる意識を持て、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とせよ、と強制されるに等しく、「個人の尊重」のもっとも根源的な部分への侵害となるのである。
しかし、国家の権力にとっては、国家の一員であることを肯定的にとらえ、国家への帰属を自己のアイデンティティの基礎とする人々が増えてくれることは、好ましいこととなる。できれば国民すべてにそういう意識を持ってもらいたいと思うであろう。そういう意識を持った国民が多ければ多いほど、権力の求心力は高まり、国家の権力体制への深刻な批判や反対は少なくなるからである。だからこそ、権力は、小さい子どものうちからそういう意識を植え付けようと、小・中・高等学校での国旗・国歌強制に躍起になっているのである。それを、今度は大学にも及ぼそうというのだ。安倍政権は、ここまで露骨に権力の欲求を満たそうとしているのである。しかし、そうして権力や支配体制への疑問をいっさい持たず批判能力をまったく失った国民ばかりになった国は、どんな国になるのであろうか。そういう国を、私たちは、「全体主義国家」と呼んで、民主主義の「敵」とみなしてきたはずである。いま、この国は、そういう方向に転がり落ちようとしている。そのことを、私たちは、はっきりと自覚しなければならない。
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